眼鏡越しの風景EP58-鍵盤-
- 2021/12/4
- yukkoのお眼鏡
最近は家に居る時間も増え、久しぶりに新しい習い事を始めたりしている。
習い事と言えば、子供の頃はピアノ、絵画工作教室、水泳に通っていた。仲良しの友達が通い始めたから、私も一緒に行きたいというのが理由で、どれも自分の意志でやりたいと決めたものではなく、なんとなくいつも人に流されていた。
小学1年生でピアノ習い出して数日後。まだ、海のものとも、山のものともわからぬ頃に、父は何を思ったのか、突然バーガンディー色の猫脚ピアノを買ってきたのだ。ピアノを買うなんて、家族の一大イベントレベルの出来事だと思うのだが、ピアノを弾く本人をお店に連れても行かずに楽器知識もない父が、仕事から帰って来るなり、ニコニコしながら玄関先で一言「ピアノ、買ってきた!」と言った。母は少し驚いていたが、いつ届くのか、いくらだったのかと、そのまま玄関先で父を質問攻めにし、ポカ~ンとする私をよそに、2人ともどこか嬉しそう。これでもうピアノを辞められなくなってしまったと、それは小1女子をたじろがせるには十分な衝撃であった。ピアノを買ってもらった後、実は割と早い時期に飽きてしまっていたが、買ってもらったピアノのプレッシャーと、友だちの間で一人だけレッスンから脱落するのが嫌で、6年生まではダラダラと辞めずに習っていた。練習はして行かないし、通っていた教室の先生はだいぶヒステリックなタイプでミスタッチをすると、手をピシっと叩くので、ますます行くのが嫌になってしまった。
絵画工作教室にも通った。当時一緒に遊んでいた友達が、「今日はこれから絵画教室だから、またね!」と言われ、まだ遊びたかった私は、そのまま見学という形で教室までついていった。白髪交じり、芸術は爆破だと言わんばかりの髪型のおじいちゃん先生は、小さな輪っかの連なった眼鏡チェーンをシャラシャラと揺らし、鼻先へとずらした眼鏡から上目遣いに私を見て、「君もなにか作ってみるかい?」と私に尋ね、工作道具を用意してくれた。おじいちゃん先生は、子供を決して子供扱いせず、丁寧な言葉で私たちの作品の工夫したところを褒めてくれ、色褪せた作業着のスモックからご褒美に黄緑色のマスカット飴を、ホイっと手のひらにのせてくれた。不思議な空気を携えたおじいちゃん先生がよほど魅力的に見えたのか、マスカット飴に釣られただけなのか、家に帰ると、いかにその教室が楽しかったかを母に熱弁し、「また習い事に行くのぉ~?」と呆れられながらも、なんとか次の週末から教室に通えることとなった。結局、1年ほどで仲良しの幼馴染ちゃんが、本格的な絵画教室へ変わるタイミングで私は教室を辞めてしまった。
水泳教室に入ったときには、珍しく負けず嫌いを発動させ、友達から遅れをとらないよう進級テストに臨んでいると、水泳大会では背泳ぎの選手に選ばれ、大会で2位になった。それでもやっぱり1位ではなく2位なのが私らしい。小学校では泳げるクラスに入っていたし、夏に行われる水泳の遠泳合宿では、小学生ながら海を2km泳ぎ切り、田舎に家族で帰省した際、素潜りの貝採り競争で海の申し子のような従兄弟たちにも負けず、なかなかいい勝負をしていた。その後も泳げることがとても役立ち、これは習っていてよかったと、今でも思う。
大人になってからは、仕事が落ち着いたのを機にまた習い事を何かしてみようと思い立った。運動系にするか、芸術系にするか、仕事とは違う脳領域を使いたいと考え、芸術系の習い事に決めた。子供の頃に挫折した名残から、何十年ぶりかでピアノを再開することにした。実家に置きっぱなし、リビングのオブジェと化していた、あの突然我が家にやって来たピアノ。いつか使う時が来るかもしれぬと、私が家を出た後も母は何十年にも渡り、調律を毎年かかさず続けてくれていた。後で聞くと、母も幼い頃、楽器を弾けることに憧れていたらしい。それでも誰にも弾かれずに、一年に一度、唯一弾くのがピアノの調律師さん。「今では珍しい国産のいいピアノなので、少しでも弾いてあげてくださいね」と毎年言われる度に、胸がチクリと痛かった。調律師さんのおかげで、今も音が狂うことなく、弾くことが出来ている。あとで気になってピアノを調べてみると、楽器作りで有名な静岡県浜松の小さなピアノメーカーが作ったものだった。もうずいぶん前に廃業してしまい、今はその会社はなくなってしまった。あらためて弾いてみると音もいいし、猫脚のデザインも洒落ていて、いいピアノだ。楽器の知識もない、普段決してセンスがいいとは言えない父が、なぜそんな洒落たピアノを選んだきたのか、一度も聞かぬまま今日まで来てしまったが、もうずいぶん昔のことで父も覚えていないかもしれない。
今は実家からピアノを引き取り、いつでも蓋を開けると弾くことが出来る。白鍵は角が少し剥げ、木目が見えているところもあるけれど、まだまだ現役。私がこれから歳を重ね、シワシワのおばあちゃんになっても、父が嬉しそうに帰ってきたあの日のことを、このピアノを弾くたびに思い出すのだろう。
♪My Favorite Song
アンコール YOASOBI