六甲山の山頂はアメリカの軍事施設だった波瀾万丈の歴史
六甲山の山頂には、戦後から1992年に返還されるまで約半世紀の間、近畿地方で唯一の在日米軍施設として民間人の立ち入りができなかったという。そんな六甲山、波乱万丈な歴史があった!
別荘地として開発の始まり
六甲山の開発の始まりは日清戦争直後の明治28年(1895年)から始まる、イギリス人貿易商人によって別荘の建設が始まったのをきっかけとして、六甲山の保養地活用が外国人によって盛んになった。
六甲山に街が形成された
別荘地として広がり明治後期から大正にかけて、六甲山に街が形成され始めた。
住み込みで別荘の奉公人として定住している人もおり、郵便局や巡査駐在所なども設けられ飲食店などもあったという。
本格的なリゾート地へと発展
昭和になり六甲山は企業による大規模な開発が次々と始まった。
昭和4年(1929年)には六甲山初の本格的ホテルが開業、昭和6年(1931年)にはロープウェイ(六甲登山架空索道、現在は廃線)が開通、翌年昭和7年(1932年)に六甲ケーブルが開通するなど本格的なリゾート地へと発展した。
六甲山ホテルのほか、戦時中に廃止された六甲登山架空索道(六甲登山ロープウェイ)の映像も含まれている。
大豪雨によって土砂災害が発生
昭和13年(1938年)7月3日から7月5日いかけて阪神地区で総雨量600mmを超える豪雨が発生、阪神・淡路大震災と並んで語られる阪神大水害である。
豪雨によって六甲山の各所で山腹が崩壊、2,700箇所以上の山崩が起き、六甲ケーブルも駅舎を失った。
当時の惨状を記録した8ミリフィルム映像(神戸新聞社)
太平洋戦争の激化
昭和19年(1944年)戦争の激化によって、六甲登山架空索道と六甲ケーブル線の双方の路線が不要不急線に指定されて運行が休止された。このとき六甲登山架空索道は金属供出により搬器やロープウェイが撤去、しかし六甲ケーブル線は運搬するのが手間だった為そのままの残され終戦を迎えた。
神戸や尼崎など、阪神間の防衛の為に、日本軍の高射砲陣地が複数設けられ、高山植物園やゴルフ場では食料の栽培が、そして展望点などは軍事教練広場として利用されたという。
B 29神戸空襲の映像
戦争終結後
戦争終結後は、日本陸軍の高射砲はアメリカ軍によって接収され、巨大なパラボラアンテナが設置された、その後近畿地方で唯一の在日アメリカ軍施設として平成4年(1992年)に返還されるまで民間人の立ち入りができなかったという。
現在では、山頂付近の片隅には自衛隊六甲無人通信中継施設が置かれており、GoogleMapでもこの通信中継施設がはっきりとわかる。